京都府の南部に位置する乙訓地域はかつて「西岡(にしのおか)」と呼ばれ、室町・戦国時代に一帯を治めたのが、武士集団「西岡衆」。織田信長や明智光秀といった有名な戦国武将ともかかわりの深い西岡衆ですが、実は地元で暮らす子どもたちが学校で学ぶことは限られています。自分たちの暮らす地域の文化資源について楽しみながら学び、ふるさとに愛着やほこりを持ってもらうためのユニークな取組が向日市で行われています。京都府と京都府内の博物館ネットワーク「ミュージアムフォーラム」で構成する「KYOTO地域文化をつなぐミュージアムプロジェクト実行委員会」が取組む「次世代と地域文化とつなぐミュージアムプロジェクト(通称つなプロ)」のモデル事業として、向日市文化資料館と京都乙訓ふるさと歴史研究会会長の中西さんが中心となって、2023年8月から全10回のプログラムとして実施されています。
11月5日に開催されたのは武士の戦い「いくさ」を体感するプログラム。向日市立第2向陽小学校で子どもたちが戦国武将気分を味わった様子をレポートします。
戦国時代の武器といえば、思い浮かぶのが火縄銃です。この日は、火縄銃の演武を祭りやイベントで行っている亀岡市のグループ「丹波亀山鉄炮隊」の八木市次代表(84)が講師役になりました。
火縄銃は1543年にポルトガルから鹿児島県の種子島に伝わったとされます。「それから10年ほどで全国に普及しました」と八木さん。鍛冶職人や細工師、指物師ら多くの技術者がいたため、国内で製造することができたのです。
参加した子どもたちは小学4年生から中学2年生までの17人。みんな興味深く聞き入ります。実際に火縄銃を持つ体験もしました。重さ約5キロの銃を手にした子どもは「おぉー、重いー」とその重量感に驚いていました。
次は、やりです。運動場に竹製の長さ約4メートルのやりが用意されています。当時の一般的な長さだそうです。地面には曲がりくねった白線が何本も引かれています。不思議に思いましたが、やりの講師を務める「京都乙訓ふるさと歴史研究会」の会長で第2向陽小校長の中西昌史さん(58)が、昔の道を再現したものだと説明しました。
戦国時代、村の中を通る道は半間(はんげん、約0・9メートル)しかなく、村と村を結ぶ道は1間(いっけん、約1・8メートル)、街道は1間半(約2・7メートル)ほどのところもあったそうです。白線はこれらの間隔で順番に引かれていました。
いよいよ子どもたちが竹を持ち、行軍スタートです。身長の何倍もある竹をバランスよく持ち上げて細い道を歩くのは、なかなか至難の業です。歩を進めるうちに列が崩れてきました。「ぐちゃぐちゃや」と感想が漏れます。実際の行軍でも列が乱れたことがあっただろうと、子どもたちは想像を膨らませました。
その後、攻撃軍と防御軍に分かれ、「戦」に挑みました。防御軍が鉄砲の代わりにボールを投げる中、攻撃軍はレプリカの火縄銃などを持って畦道(あぜみち)に見立てた白線内を歩いて敵陣地に攻め入りました。
ほら貝を吹いたり、甲冑(かっちゅう)を着付けてもらったりする体験もあり、戦国時代の雰囲気を感じていた子どもたちにとって「ハレの日」の一日のようでした。
第2向陽小5年の圓山沙羅さん(11)は「やりや鉄砲を使って楽しかったけど、戦国時代だったらやっぱり怖くて私には厳しいと感じました」と苦笑い。第3向陽小5年の中埜純太郎さん(11)は「やりを持つとゆらゆら揺れて安定しなかった。織田信長の軍は6メートルのやりを使ったと聞いて、すごいなあと思います」と驚いた様子でした。
京都乙訓ふるさと歴史研究会の中西さんは「歴史を知ることは、この町の未来を考えるために大事なことです」と意義を話していました。
この体験学習は、京都府などでつくる「KYOTO地域文化をつなぐミュージアムプロジェクト実行委員会」が主催しています。2023年8月に始まり、24年2月まで計10回開かれます。子どもたちが自分たちの地域について頭と体を使って学ぶ機会になっていると感じました。